国立天文台には江戸幕府天文方の所蔵していた和漢書を中心に、天文関係の貴重書が多数所蔵されています。渋川春海を初代とする江戸幕府天文方の旧蔵資料も引き継いでいます。それらの資料を広く知っていただくことを目的に、「貴重資料展示室」でテーマを決めて定期的に公開展示を行っています。
国立天文台には江戸幕府天文方の所蔵していた和漢書を中心に、天文関係の貴重書が多数所蔵されています。渋川春海を初代とする江戸幕府天文方の旧蔵資料も引き継いでいます。それらの資料を広く知っていただくことを目的に、「貴重資料展示室」でテーマを決めて定期的に公開展示を行っています。
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・天官書・湊有叢書 : 図書室には、『天官書・湊洧叢書』の合冊製本版 もあります
・車軸の雨 : ”車軸(の雨)”という言葉を、漢訳のインド宇宙観・世界観、日本古典の中に渉猟した論考で、別に”古代星界植物考”という論文も含まれる
・毘首羯磨 I : 1906-1986 紀念冊。蘭学時代のメートル法/宿曜地震占考/伊縫楽
・毘首羯磨 II : 1989 Oct.綺盡/神武紀元再論/大晦日の蒔砂/長池の和算家?西岡天極斉
・毘首羯磨 III : 1988 Nov.都利津斯教について/天竺の海/算用算木占
3冊から成り、IIでは漢字タイトルに並べて、"Vissakamma"と書かれている。これはインドのパーリー語で、”造物主”といった意味だそうである(大橋由紀夫氏の教示)。 各冊には数編の論文が含まれている。
・科学史1
・科学史2 : 京女といった略語と共に時間割が付されている。年代は不明だが、関西の大学で行った講義ノートであろう。
「車軸の雨」と「毘首羯磨」は、彩色和紙の表紙で和綴じにし、2色刷りのガリ版にした今井さん独特の科学史の論考私家版である。今井さんの私家版でよく知られた『天官書』に比べて、配布されたとしてもごく少数だったらしく、当時を知る関係者で聞いても知っている人はいなかった。今井さんの思い入れが込められていることがよく分かる手のこんだ小編である。 [2002.07.09/中村士]
今井いたる(サンズイに秦)さんは明治40年、長崎に生まれ、年少時代も長崎で過ごした。略歴を以下に示す。明治40年、長崎に生まれ、年少時代も長崎で過ごした。
昭和元年~昭和7年(1926-1932):東京天文台に奉職して、彗星の軌道計算などを行なう。神田茂、小川清彦らと同僚になり、天文学史、科学史に傾斜していく。
昭和7年~昭和18年(1932-1943):上海自然科学研究所に在職。中国各地 の測量業務に従事しながら、中国の古典籍と歴史遺跡を渉猟して多くの中国科学史の新知見を得る(これは後に、処女作『中国物理雑識 全』(昭和21年)としてまとめられた)。
昭和19年以後~:病を得て帰国、療養生活をおくる。
昭和26年~昭和46年(1951-1971):深泥ヶ池の京都大学地学観測所に勤務、地震計の観測などに従事。
平成2年(1990):6月14日、逝去。享年84歳。
今井さんの最大の学問的業績は、私は次のものであると思う。16世紀後半から17世紀始め、日本が鎖国する以前は、日本人は倭寇や御朱印船貿易者として南海を飛び回り、最も自由で独立した気風を謳歌していた時代であった。この時代の日本天文航海学史を、今井さんは幅広い科学史的知識と古典語の驚くべき学識によって明らかにした。この時代の科学史を本格的に研究しようとすれば、英・独・仏語、漢文は言うに及ばず、ラテン語、ギリシャ語、アラビア語、南蛮人の言葉であるポルトガル語、スペイン語の文献を読解する能力が要求される。今井さんはこの困難な能力を、組織的教育も受けずにほとんど独力で身に付けた希有の人であった。こうした研究の過程で今井さんは、今井文庫に収められた各国語の稀こう本を蒐集していったのである(大崎正次さんによる今井文庫の紹介文も参照していただきたい)。それらの成果は、ガリ版刷りの論文シリーズとして、昭和30年代、ごく一部の研究者の間にだけ配布された。”幻のアンソロジー”と言ってもよい『天官書』シリーズである。私は中学・高校時代、この『天官書』をたまたま瞥見する機会があったが、分らないなりに強い憧れと尊敬の念を抱いて眺めた記憶がある。
今井さんの如き古典語の学識を今に身に付けるのは至難の業であるから、『天官書』の業績を越える研究はいまだ皆無と言ってよい。この意味で、『天官書』は極めて貴重な天文航海学史の史料であある。
なお、今井さんの略歴を書くにあたっては、故大崎正次さんのメモを一部参考にさせていただいた。
[2000.09.14/中村士]
東京帝国大学理学部天文学科卒業後、1942年に東京天文台入台。FK3星表の三鷹子午線通過時の視位置推算に従事しその後、暦研究課の責任者として暦象年表の編纂に力を注いだ。日本暦法史関係の文献資料に造詣が深く、日本暦法史の研究では、日本全国の暦法史関係資料を調査し、膨大な量の撮影フィルムが天文台に 残された。このフィルムはマイクロフィルムに再生され、図書室に備え付けられ、 研究者に開放されている。昭和37年、総合研究「江戸時代の天文学」のメンバーとして、渋川景佑らの 研究を行った。その際、集められた和漢書は、天文台貴重和漢書の一部として、保存されている。志半ば、資料調査途中の地方で客死した。和漢書の他、前山が日本暦法史の研究の為に使用した個人蔵書が、没後、天文台に寄贈された。[伊藤節子]
渡邊敏夫氏(1905年6月-1998年11月)は、京都帝国大学理学部宇宙物理学科を卒業、1955年「古代日食から導いたブラウンの太陰要素の改訂」で京都大学理学博士を得た。 東京商船大学助教授、ついで教授になる。1969年定年退官、東京商船大学名誉教授。
主な著書:
『天文暦学史上における間重富とその一家』山口書店 1943年
『数理天文学』恒星社厚生閣 1951年
『日本の暦』雄山閣 1976年
『日本・朝鮮・中国日食月食宝典』雄山閣出版 1979年
『近世日本科学史と麻田剛立』雄山閣 1983年
『近世日本天文学史』恒星社厚生閣 1986-87年
和漢書、暦、星図などの渡邊氏の主要蔵書は、生前にご本人の意向で、国会図書館にまとめて寄贈された(現在、公開されている)。渡邊氏の逝去後、歴史学者、大谷光男氏(二松学舎大学名誉教授)の仲介で、2000年頃の夏、名古屋在住のご遺族の方から、渡邊氏が残した資料の調査を依頼された。伊藤節子氏(国立天文台、当時)と私がご自宅に赴き、整理・分別をし、寄贈・公開の了解を得て国立天文台に引き取ったものが現在の「渡辺敏夫文庫」である。
[中村士、2018年7月記]
「広瀬文庫」は、元東京天文台台長(在任期間 昭和38年4月1日~昭和43年11月9日)であった広瀬秀雄先生(1909-1981)の旧蔵書・資料である。
出身は兵庫県姫路市、東京帝国大学に入学、昭和7年(1933)、天文学科を卒業した。専攻は天体力学。1951年、東京大学教授、1963年に東京天文台長になる。博学多才の人で、天体軌道論、恒星のエンペイ観測による鉛直線偏差の研究、礼文島日食食帯の正しい予測、人工衛星を利用した測地学的研究、シュミットカメラの研究、日本暦学史の研究など、多方面に大きな業績を残した。日本暦学史の研究では、関孝和が改暦に意欲を燃やしたらしいこと、及び伊能忠敬による実測日本全図は経度方向に系統的な歪がある点を指摘したことで知られている。
「広瀬文庫」は目録を見ていただければ分かるように、何らかの意味で天文に関係した広範囲な漢籍、江戸時代及び明治以降の和書、洋書、資料、写真、スクラップブックなどを含んでいる。中でも、週末ごとに自転車で各地を回って調べた多摩地方の庚申塔(これも天文に関係している)の調査ノートと写真は、その膨大な量の点だけからも、他に類を見ない貴重な資料集ではないかと思う。[中村士]
岡田芳朗氏 (1930-2014) と岡田芳朗文庫について
岡田芳朗氏は東京都出身で、昭和28年(1953)に早稲田大学教育学部を卒業、昭和31年(1956)同大学院文学研究科日本史学専攻修士課程修了。女子美術大学教授、文化女子大学教授を経て女子美術大学名誉教授となった。日本における暦研究の第一人者として活躍する一方、日本カレンダー暦文化振興協会最高学術顧問や暦の会会長など、暦の教育普及にも熱心で、著作は『旧暦読本―現代に生きる「こよみ」の知恵』『江戸の絵暦』『暦を知る事典』『暦のからくり―過去から学ぶ人生の道しるべ』『暦ものがたり』『現代こよみ読み解き事典』『明治改暦―「時」の文明開化』ほか多数にわたる。
岡田文庫は岡田芳朗氏の所蔵していた資料・書籍などをご遺族から直接ご提供いただいたものである。貴重な資料が散逸することなく収集できたことはまことに喜ばしい限りであり、この場を借りてご遺族のご厚意に感謝申し上げたい。一方で、その分量は膨大なものであり、すべての整理がつくにはまだ数年はかかる見込みである。当面は、整理のついたものから順次公開していく形になるだろう。誤りなどのご指摘、ご意見・ご要望などがあれば、随時お知らせ願いたい。