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今井いたる文庫

今井いたる氏の遺書目録についてのコメント/大崎正次

  1. 遺書は1950〜60年代の刊行の書物が目立って多く、その総数の殆ど半数に近い。
  2. これは今井氏の研究テーマに関連すると思われる。今井氏の科学史・技術史の研究は、はじめ中国・日本の年代学・技術史から始められ、その後、日本近世史特に、(1)キリスト教伝来時代、いわゆるキリシタン時代、(2)江戸中期以後の、いわゆる蘭学時代の二つの時期に深く傾倒されるようになった。その研究時期がまさに1950〜60年代に相当しているのである。それらの論考に関する書物を熱心に購入されたのである。その頃次々と発表された論文を中心として、「西洋天文学移入史雑考−今井湊氏の研究業績の紹介−」(蘭学史料研究会報告1959.2.)の拙稿も今となっては懐かしい思い出である。当時は1ドル360円時代で、外国から、特に古書を入手することなど、甚だ面倒であった筈ある。今井氏からの書面で、ユニセフを利用ししていると知らされたが、その詳細については、実は私は今でもはわからない。遺書の中に挟まっているINVOICE(送り状)を見ると、刊行書店または古書店から直接購入していることがわかる。

  3. 遺書を一冊ずつ手にとって目録を編纂中に気のついたこと。
  4. 価格の上で美本を求めることは到底無理で、かなり傷んだものも承知の上で注文されたと思われる。主として内容本位で購入され、その選択は慎重かつ正統的で史料的な書物は注解のついたものが多く、研究書は第一級の研究者の定評のある書物が集められている。しかし必要なものは、かなり高価な古版本まで取りよせられているのが目に立つ。遺書の中にみえる言語は、ラテン語、ポルトガル語、スペイン語、イタリア語、フランス語、英語、ドイツ語、オランダ語、ロシア語、アラビア語であるが、古版本の中ではオランダ語の本が多い。これは海外に雄飛したオランダ全盛時代の文化を象徴する遠洋航海術を世に伝えるものである。また18世紀以前の本ではORTHOGRAPHY(文字の並べかた)が違うために、現代語の辞書ではもはや見えぬ語彙が多く、今井氏も屡々悩まされたことであろう。ついでにいえば1600〜l800年代の古版本は装丁、紙質、印刷その他、20世紀に入ってからの本とくらべると大きな差異があって、その本自体がもはやANTIQUEである。またその内容も、今となっては天文学史の史料そのものと化している。その点では、これらの遺書も、また近代天文学史の貴重な史料となってしまったといえるであろう。古版本の総数は17部18冊、その内、1500年代−1冊、1600年代−5冊、1700年代−8冊、1800年代−4冊、総皮装8部8冊、背皮装3部4冊、紙装5冊、背・表紙共に欠 1冊、総皮の内1冊は珍しくも羊皮装である。書物の大きさはまちまちだが、総皮装のものはほとんど週刊誌大で、ほかにはB6版のものが数冊数えられる。内容を分類してみると、航海関係のものが多い。これも近世初期の西欧人のアジア進出、また一時期ではあるが、日本人も南方に進出し、彼らの遠洋航海術に今井氏はのめりこんだのだと私は思っている。この分野では、

    • 水路誌・海図・地図の作製史
    • 航海用天体測量器具・時計・クロノメーターの歴史と用法
    • 海事博物館に集められた天・地球儀のカタログ
    • 大航海時代の先を争った新世界発見史・その航海史
    • それらを開拓した勇敢なパイロット達の航海記
    など、拾い読みしたいほど楽しそうな本の集まりである。航海とは直接関係はないが「日本の発見者」(1544年)と自称するメンデス・ピント、また東印度会社の司令官=英艦の船長セイリスが平戸に入港(1613年)した航海記が含まれている。それにボクサーの名著、1550〜1640年の100年にわたる日欧通商年代記も貴重な記録である。アラビア天文学への関心の深さは、遠洋航海術への傾倒の延長ではないかと思われる。アラビア語の資料はインドから案外容易に入手できるとよろこんでおられたことを記憶している。それに新しく踏み込んだアラビア語魅力も拍車をかけたのかもしれない。  ここで、今井氏の論考に関係の深い遺書について、すこしばかり触れておこう。ひとつは転びキリシタン沢野忠庵(元宣教師クリストウァン・フェレイラ)の著書『乾坤弁説』によって日本に初めて紹介されたアリストテレス=プトレマイオスの西欧的世界像の典拠についての論争である。今井氏はクラヴイウス(1537〜1612)の「天球論』に拠るとしたが、これに対して尾原悟氏はゴメス(1535〜1600)の「天球論』に拠ると論じられたのである。前者は西欧に名も高いローマの天文学者、後者は日本布教区長の著書である。その論争の決着については先にある因縁話を読んでいただきたく、後に譲ってここでは省略するが、この当時熟読沈潜大いに引用されたのが、遺書目録NO.5, 6, 7の書である。ここでは、それら3書の『天球論』について少しばかり記しておこう。その前にアリストテレスが中世ヨーロッパに伝えられ、キリスト教思潮に接ぎ木され た前後をのべる書物までも、ご丁寧に今井の遺書の中には備えていることをお伝えしておこう。NO.3の書名に見えるAbu.Ma'Shr(886没)はアラビアの占星学者であるがその名声は西欧にまで届き、アリストテレスの西伝に関係深い学者である。 NO.4はこれまた有名なThomas Aquinus(1274没)のアリストテレスの天体論、気象学の注釈書である。 さてここでAristoteles=Ptolemaios世界像を西欧世界に普及させたSacroboscoが登場する。それが遺書NO.5のSacroboscoの「天球論」である。著者Sacrobosco(1258没)は英人、英名はJohn Hollywood.Oxfordに学び、のちParis大学教授となり、そこで没した。彼の名著「・V球論」(印刷本の初版は1472年。以後版を重ねる)は、簡潔にして要を得た叙述によって名声をあげ、17世紀に至るまで、西欧世界の最も基準的な天文の教科書とされた。中世末から近世初頭にかけて知識人の教養としての世界像・宇宙観は、天文学者を除いては、彼の書によるものであり、またこの書に対して多くの注釈書が書かれた。  その中で最も有名なものが、Sacrobosco注釈本の決定版ともいうべきClaviusの「天球論」(成立1561)、今井遺書のNO.6, 7に当たるものである。NO.6は1602年版(Lyon)、NO.7は1603年版(Venetia)の異版である。Clavius(1537〜1612)はドイツ出身の数学者・天文学者。イエズス会士で、最高教育機関コレッジョ・ロマーノの学頭となった当代随一の碩学であり、世に名高いグレゴリオ改暦の提案者であった。前記リヨン版で590ページ。小文字ながらぎっしりつまった大著で、この時代の天文学百科事典でもあった。そして17世紀に中国や日本にイエズス会士を介して、西欧天文学が移入された場合、彼らの教育の総本山であるローマ学院の学頭の著したこの書は、宣教師たちにとってはいわば天文学の『聖書』であった。今井氏は論考の典拠とするため、親本のsacraboscoの天球論、Claviusの異版まで取り寄せて勉強したのである。それはさておき、ともかくこれらの貴重な書物を揃えて残された今井氏にまずもって感謝と敬意を表したい。  さて今井氏・尾原氏の論争はどうなったか。その前に、先ほど筆が滑った因縁話について少し触れたい。今井・尾原両氏がそれぞれいいたいことを言い尽くした頃のある日、上京した今井氏は定宿である拙宅にくつろいで、食後のお茶を飲みながら、論争の経過を私と二人で話あっていた。その時、突然妻が「ちょっとまって」とわりこんできたのである。話を聞くと、話題の中の、オバラサトルという方が神父さんなら、わたしはそのかたを知っているというのである。それから妻の昔話を聞かされて、その奇縁にこちら二人は目を丸くして驚いた。広島女学院の生徒の頃、姉に連れられて尾原家によく遊びにいったが、その家のお坊ちゃんが悟ちゃんで、ちょっと耳にしたうわさでは、神父さんになったと聞いているから、間違いないというわけである。尾原氏は、女学院付属の幼稚園・梠縺A実は妻の姉の教え子だったのである。そんな・盾ナ、電話をかけた結果、尾原氏は翌日拙宅にみえ、今井氏と初対面ということにあいなった。妻のみなれた少年は、今はうわさ通りカトリックの神父さん(Satoru Augustino obara SJ.)であり、また今井氏の論敵である上智大学史学科の助教授であったのである。実はかくいう私も、かつてはキリシタン史に一枚噛んでいたのであった。私の処女論文は「日本耶蘇会の改暦」、次いで「吉利支丹の暦」という論文を発表したことがある。もう60年も昔のことだが、前者は、ローマとは万里の波濤を越える日本のキリスト教会では、ユリウス暦をグレゴリオ暦に改暦した年は1585年ごろと考証したもの、後者は当時のキリシタン教会暦について論じたものである。ところで尾原氏を交えて四人ともども、世の中って実に狭いもんだということを実感したことである。  さて肝心の論争の結果はどうなったか。論争当時はそれぞれ味方する方がおられて決着しなかったが、1968年やっとある結着がついた。審判官は科学史家の伊藤俊太郎氏。「アリストテレストと日本−わが国における西欧的世界像の最初の受容−」(東大教養学部紀要第一集」)という論文だった。伊藤氏のお説は、「乾坤弁説の拠った原本は本文はゴメス、その中に含まれる図版と数値はクラヴイウスに拠ったもの」という結審だった。実は論争批判の過程の間に、問題の焦点は本文と図版・数値の2点に狭まり、伊藤氏のゆきとどいた論証の上に名判決を下されたのであった。  ここに大方の納得は得られたようである。ここでゴメスの「天球論」を日本にはじめて紹介された尾原氏にも、感謝と敬意を表すために、尾原氏のご労作を紹介しておきたい。それは「キリシタン研究第10集」に発表された、1.ゴメスの原文(ラテン語88P)2.日本語訳(試訳95P)3.論文(キリシタン時代の科学思想−ペドロ・ゴメス著「天球論」の研究−78P)合わせて261Pに及ぶ大論文である。その上ゴメスの原本は1593年に成立したが、その後ついに書物の形になることなく、和紙に書かれた手稿本のまま数寄の経路を経て、長い間ヴァチカン図書館に眠っていたという曰くつきの文献である。それがまわりまわって尾原氏によって日本で読めるようになったのも、これまたひとつの因縁話ではないかと私には思えてならないのである。 さてこのあたりで元に戻して、遺書に帰ろう。
    NO.8惑星・位置を1分まで測定したBraheの観測器具が19図によって解説されている。
    NO.11, 12, 16, 18 は、いずれもオランダ古版の堂々たる天文学通論である。英国は蘭にとってはなにかにつけてライバルだが、こと天文学については(オランダは)英国びいきであった由聞いているが、(その真偽のほどは)私にはわからない。
    NO.17 14世紀に惑星の位置計算に使用された惑星儀についての解説。
    NO.19, 20 著者N. Oresmeは14世紀のArktoteles自然観の研究者。中世仏語の英訳。
    NO.24 G. Tierie, Cornelis Drebbel(1633没)は英人ガラス職人、望遠鏡、顕微鏡の製作者。
    NO.25 二ュートン前後の力学についてのエッセイ。
    NO.26 中山茂氏の日本天文学史(英文)副題にChinese Background Western lmpactとみえるように、中国・西欧から伝来した天文学を日本はいかに受け入れたかについてテーマがおかれていて魅力ある天文学史。
    NO.28 地球儀の写真多数あり。
    NO.29 書名「How to Identity Old Maps And Globes」に沿うため、15OO~185Oの地図の写真42図、英国の地図製作者・出版者のリストがつく。
    NO.31 Waghenaerの1585年(Leyden版)水路誌の復刻本(facsimile)大型本(45×30cm)。
    NO.33 同じ著者の1592年(Leyden版)同上(30×26cm)。
    NO.34 W.J.Blaeuの1612年(Amsterdam版)同上。
    NO.35 オランダにおける地図製作史。図多数。
    NO.37 著者中村拓(ヒロシ)氏は、アジア古地図の世界的コレクター。その人の解説。
    NO.38 通商立国で活躍したオランダの面目を誇り高く示す海事史博物館所蔵の蔵書目録。大冊2巻1154P・ノ収める書目は壮観である。今井氏が短期間に関係書・ィを見事に集められたのは、この書のほか、reference bookの類を周到に利用された結果であると私は今思っている。
    NO.40 早期の航海器具の図多数。
    NO.41 アストロラーベの写真14図、四分儀の写真10図、オクタントの写真1図。
    NO.46 クロノメーター(航海時計)の歴史と構造図。写真多数。なおN0.4O代の書物には種々の航海表が多くついている。
    NO.47 コンパス・海図・アストロラーベ・四分儀・その他の航海器具の図多数。
    NO.53 各海洋の踏査史。写真64P(船型、航海器具、海洋地図、住民風俗図など多数)。アラビア天文学・航海術については、その言語を解さない私にはコメントの仕様もないが、中世・近世初頭の天文学史にとっては、避けて通らぬわけには行かない幹線道路である。長い間ヨーロッパ中心だった学問の未開拓の世界がここにある。今井氏はそこに鍬をいれた数少ない先学の一人であった。ここに残された書物はそれを後に伝えるリレーレースのタスキのように思えてならない。
    NO.68 著者不明のペルシャ人の手稿本。中世サマルカンド天文台において使用された日・月食、惑星の位置を求めるために使用された惑星儀についてのべる。
    NO.77 表題の英文にEncyclopaedia of Astronomical Sciencesとある。あわせて全3巻、約1800Pの大冊である。残念ながら、全文Arabic letter。終わりに、これらの遺書の中で、江戸時代の蘭学者によって翻訳された2書を紹介して、貧しいコメントの筆をおこう。
    NO.12 J.Kei11の天文学(ラテン文からの蘭訳) 622P.Leiden 1751 志筑忠雄訳  暦象新書 6巻 1799〜18O2 長崎の阿蘭陀通詞退職後、この翻訳に傾倒、西欧天文学の紹介として名声をあげた。
    NO.11 N.Struickの彗星誌  216P.Amsterdam 1753
    高橋景保・渋川景佑訳  古今彗星志 8冊
    過去に発見された彗星の目録。・者は兄弟で、共に幕府天文方の重鎮、西欧天文学(主として西洋暦法)を蘭書によって学び、近代化を進めた。
    1995.7.21

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