「江戸のモノづくり」文庫目録
「江戸のモノづくり」文庫目録
「江戸のモノづくり」について [中村士、伊藤節子]
「江戸のモノづくり」とは平成14年度〜17年度に、文部科学省科学研究費補助金による特定領域研究、「我が国の科学技術黎明期資料の体系化に関する調査・研究」(略称「江戸のモノづくり」)が実施された。予算規模と参加研究者数の両方の面で、文科系科学研究費としては過去に例を見ない大規模な研究だった。この小文の筆者らも、「日本天文暦学史料のグローバルな調査と総合目録の作成」というテーマで、「江戸のモノづくり」の計画研究班の1つとして参加した。
その主要な研究成果は、『明治前日本天文暦学・測量の書目辞典』として、2006年2月に出版されている。なお、明治時代以前日本天文暦学書の目録作りの系譜については、「神田茂文庫」の解説記事を参照していただきたい。
「江戸のモノづくり」文庫の内容上記の目録作成作業の参考資料として、私たちは関連する江戸時代の天文暦学書を購入・蒐集した。その総数は、一覧表からわかるように、和書のほかに漢籍、洋書も含めて約80点である。それらの中から、ここでは、興味深い書物を何点か選んで紹介してみる。
(I) 天文暦学書
- 朝野北水に関する史料
- 星図
- 蘭書
朝野北水とは、文化・文政期に日本各地を遊歴して、初等的な天文学を多くの人々に教授した啓蒙天学家である。天文・気象現象を身近なたとえで説明する、陰陽道などに基づく迷信を強く排撃する、自ら考案した星座早見盤のような図表を多用するなど、現代の天文教育の先覚者と呼んでもよい人物である。北水の著作は口述されたものが大部分のため、史料の内容を詳細に検討してみないと北水の著とわからないものも少なくない。しかし逆にこの点が却って、北水の著作を探索する面白さであるということもできる。
一覧表にある『天象記聞』、『暦日早繰集』、『天象星名録』などは、よく知られた北水の著述である。それ以外に、内容から判断して、『天学龍淵先生記聞』、『天文初心抄』も北水の著作、または北水に関する著書と考えられる。特に、『天学龍淵先生記聞』は、従来知られていなかった北水の経歴を述べている点で貴重な史料である。
表題も著者名もない巻物状の星図で、『天文之図巻』は古書店がつけた仮題である。赤道を中心とするメルカトール図法のような矩形星図と、北極を中心とする円星図からなる。古代中国からの伝統的な星座(星宿)を赤色で、渋川春海が新設した星座を青色で区別している。末尾に、「星」と「翼」という2星座について、浅野北水改正二星図と記されているから、この星図も北水か、彼の門人が制作した星図であろう。
J.F. Martinet著『Katechismus der Natuur』, 第3版の4巻本(第1巻〜3巻は1778年、第4巻が1779年)。本書は自然の知識と成り立ちを問答形式で説明する入門書で、自然の教理問答、つまり、江戸時代には「究理問答」と訳されていた。第1巻は、宇宙と天体、大気、気象、地球、陸地と海、などを論じ、他の巻では植物、動物、人間を扱っている。吉雄俊三による『遠西観象図説』(文政6年)、土井利位の『雪華図説』(天保3年)は、このマルチネットの本を参考に書かれたとされる(中村士)。
(U) 暦術書、こよみ、その他
ここでは、暦法書、推歩稿、暦註書、略暦類について述べる。貞享暦以降、暦が幕府により統一されて、それ以外の暦を作ることはできなくなるが、学問の興盛の中で、個々人の暦術に対しての探求が行われている。『庚申補暦』は蔓延元年庚申を基とした推歩稿であり、『暦術書』には「貞享暦帯蝕ノ違ヲ論ス」という項目が見える。『永福雑書萬年暦』は暦註書である。
- 『七十二候抄』
- 「略暦」
- その他
「七十二候」は、24節気を更に3つに分けた約5日ごとの期間で、季節を表す言葉として書かれた。宣明暦時代は、中国から伝わった七十二候がそのまま使われていたようだが、貞享暦、宝暦暦は多少変化がある。この『七十二候抄』は、刊本5冊のうち、第1冊は七十二候についての解説。第2から第4冊までは、絵と七十二候の内容、第5冊は七夕などの年中行事が述べられている。第1冊のあとがきには「貞享丙寅(3年)」の年号がある。
暦が統一された後の地方の暦は、「略暦」としてその特徴を残している。『秋田暦』、『月頭暦』がある。『安永二年歳次癸巳略暦書』には、次の特徴がある。統一暦で使われている年号である「明和」とは違うこと、表紙に「姫藩略暦之記」と押印されていること、漢字ですべて書かれていることや、当時の中国暦である時憲暦に形式が似ていることなどである。一般に流布する目的ではない略暦で、姫路藩での一部の人たちに配られた暦であることが推察される。
『八丈實記』写本1冊。嘉永三年、有無庵不明自序とある。有無庵不明は、北方探検家、近藤重蔵正斎の長男、近藤富蔵守真の号である。文政9年に殺傷事件を起こして八丈島に流罪になり、明治13年までその地で暮らした。その経験をもとに著わした書で、柳田国男など、日本民俗学に大きな影響を及ぼした。序の後に、伊豆や安房からの八丈までの彩色図で、島と距離が描かれている。当時は流人の島でもあり、また、船が漂流してたどり着いた人もいる。八丈島についてのさまざまな事が記されているが、江戸からの距離、地理、言語の中には、天地や時に関して現地で使われていた言葉も書かれている。また、どこから船が流されてきたかについての記述もあり、これから潮の流れを推測することもできるだろう(伊藤節子)。 2013年11月記