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貴重資料展示室

二十四節気と暦(2016年10月21日〜)

暦は祭事、農作業などの目安として欠かせないものであり、季節とのずれが少なくなるよう改良されてきた。

太陰暦では月の満ち欠け周期29.5日をもとに1ヵ月が決まり、12ヵ月では354日となる。これは地球の公転周期(=季節)で決まる太陽暦の1年365.2422日より約11日短い。そのままでは暦と季節がずれてしまうので、中国や日本では二十四節気によって太陽の動きを考慮し、約3年に1回(より正確には19年に7回)閏月を入れて補正する太陰太陽暦を使っていた。なお太陰とは月の意味である。

今日使われている太陽暦のグレゴリオ暦は、その前に使われたユリウス暦の閏年の入れ方(4年に1回)では長い間に暦と季節の関係にずれを生じたため、閏年を400年に97回として改良したものである。

諸国圖會

「諸国圖會(しょこくずえ) 年中行事大成」 桃山遊宴の図 文化三年(1806) 速水 春曉斎 刊本4巻6冊

天保十二年(1841)「伊勢暦」  天保十一年刊

伊勢暦は、折り本(印刷した細長い紙を山谷交互に折り長方形にたたんだもの)の体裁で1枚の版木に半年分、それを2枚つなげて1年の暦とした。伊勢神宮の御師(おし)(神職のひとつ)が全国を廻って正月に飾る御札とともに祓い箱に入れて届けた。

配られた暦にはこの写真のように表紙が付けられて、金泥の装丁を施した豪華なものもあった。

下の天保十二年の伊勢暦を見ると、「伊勢度會(わたらい)郡山田 箕曲主水」「天保十二年かのとのうし乃寛政暦斗宿値年凡三百八十三日」他にその年の方位占いが書かれ、左下に月の大小がある。「正月小」に続いて日毎の暦注が29日まで続き、その後に「雨水正月中」次に「閏正月大」とあって閏正月が入ることがわかる。

天保十二年の伊勢暦

太陰太陽暦は暦を見るまで、その年の日数、月の大小、閏月がどこに入るかなどがわからなかった。

今回取り上げた4年間の暦でそれぞれの1年は順に、天保十二年383日(閏正月)、天保十三年354日、天保十四年384日(閏九月)、弘化元年355日である。その後の15年間は弘化二年354日、弘化三年384 日(閏五月)、弘化四年355日、嘉永元年354日、嘉永二年384日(閏四月)、嘉永三年354日、嘉永四年354日、嘉永五年384日(閏二月)、嘉永六年355日、安政元年384日(閏七月)、安政二年354日、安政三年355日、安政四年384日(閏五月)、安政五年354日、安政六年354日と19年間で7回の閏月が入る。この間の1年の平均日数は365.21日で1太陽年の365.2422日とほぼ等しく、これをメトン周期(中国では章)という。

金沢「柱暦」 天保十三年(1842)

この柱暦は金沢で出版されたもので、国立天文台の貴重書庫には何点か複数年の柱暦をまとめて綴ったものが収蔵されている。一枚の紙に印刷され家の柱などに貼り付けて使われたためか、このように上部が傷んで補修されたものが多い。

「天保十三年 みつのえとらのとし(壬寅) 凡三百五十四日」(凡は総てを数えてといった意)伊勢暦と同じように右に方位占いが書かれ、中央にこの年の月の大小と朔日の六十干支、二十四節気など、左には「日そく七分半 六月朔日さるとりの時 月そく三分 六月十五日いぬの時」と日月食の予報がある。

この柱暦のように月の大小と節気などをまとめて書いた暦を「月頭暦」と呼ぶ。

金沢「柱暦」

二十四節気は1年を24等分して季節をあらわすと共に、閏月を入れる目安ともな っていた。奇数番目のものは節、偶数番目のものは中といい、月の満ち欠けでひと月を決めた暦に配当する。たとえば2月中「春分」を含む月は2月となり、中が含まれない月は閏月として前の月名に閏をつけて閏2月とよぶ。

中国では冬至が暦の起点とされ、南中時の太陽の高度がもっとも低くなり日影がもっとも長くなる日を観測した。この他、真東から日が昇り真西に日が沈み昼夜の長さがほぼ同じになる春分、影がもっとも短くなる夏至、昼夜等分の秋分をまとめて二至二分という。

「三嶋暦」 天保十四年(1843) 天保十三年刊

三嶋暦は、豆州賀茂郡(今の静岡県三島市)三嶋大社の暦師河合家によって作られていた。

最も古い三嶋暦は永享九年(1437)のものが残されているが、記録にあるのは14世紀後半からで、明治初期まで出版が続けられていた。

三嶋暦

暦は古くは宮中で陰陽寮が編纂し天皇に献上された後、必要に応じ書写され官職や地方官庁に配られた。

初めは漢字で書かれた具注暦であったが、仮名文字の発明で仮名暦が作られるようになると、技術の発達とともに京都や奈良で印刷された暦(刷り暦)が流通するようになった。

刷り暦としては、三嶋暦の方が広く知られていたため、刷り暦全般のことを「みしま」と呼ぶこともあった。

この三嶋暦は紙縒(こより)でとじられた綴暦(とじごよみ)である。

天保十四年は閏年で、下にある9月のページでは九月二十九日(廿九と表記)の後に二十四節気九月中の「霜降」があり、後に閏九月が入っている。

三嶋暦は、豆州賀茂郡(今の静岡県三島市)三嶋大社の暦師河合家によって作られていた。

最も古い三嶋暦は永享九年(1437)のものが残されているが、記録にあるのは14世紀後半からで、明治初期まで出版が続けられていた。

暦は古くは宮中で陰陽寮が編纂し天皇に献上された後、必要に応じ書写され官職や地方官庁に配られた。

初めは漢字で書かれた具注暦であったが、仮名文字の発明で仮名暦が作られるようになると、技術の発達とともに京都や奈良で印刷された暦(刷り暦)が流通するようになった。

刷り暦としては、三嶋暦の方が広く知られていたため、刷り暦全般のことを「みしま」と呼ぶこともあった。

この三嶋暦は紙縒でとじられた綴暦である。

天保十四年は閏年で、下にある9月のページでは九月二十九日(廿九と表記)の後に二十四節気九月中の「霜降」があり、後に閏九月が入っている。

三嶋暦三嶋暦

「江戸暦」 弘化元年(1844) 天保十四年刊

表紙には天保十五甲辰新暦とあるが、天保十五年は同年五月の江戸城火災などで十二月二日に改元されて弘化元年となったため、天保十六年暦も出されている。

天保暦は天保十三年に案ができた日本で最後の太陰太陽暦である。西洋天文学を取り入れた先進的な暦であったが、定気法(二十四節気の決め方で、これまで使われてきた1年を24等分する恒気法ではなく、実際の太陽の動きから決めた。一つの気の長さが一定でない)を採用したため、中気を2つ含む月ができたり、それに伴って中気が含まれない月が複数回できたりして、これまでの置閏法では破綻を生じることになった。

江戸暦

「天保十五年きのえたつ天保壬寅元暦虚宿値年凡三百五十五日」

元号が変わっても、甲子(きのえね)から始まる六十干支は連続するので年次を認識する助けとなった。

江戸暦

「七十二候」 貞享三年(1686) 刊本5冊

七十二候

七十二候は二十四節気をさらに初候、次候、末候の三つに分けて約5日間の気候の変化を表したもので、中国の正光暦(522年)から記載されている。正光暦は黄河中流域の北魏(386〜534年) で使われた暦であり、七十二候には日本の気候にそぐわない記述もある。

貞享の改暦で渋川春海がそれまでの中国の七十二候を日本の気候や動植物にあわせて改めたため、同じ名称でも日本と中国では時期がずれているものも多い。また日本では五月節次候、中国では六月中初候の「腐草為蛍(くされたるほたるとなる)」など、あきらかに非科学的なものも含まれる。

図の獺祭は中国の七十二候にある正月中雨水の初候で、カワウソが捕った獲物を岸に並べる習性について、北極星に魚を供え祭っていると見立てている。これを元に文筆家などが多くの資料を広げている様子としても使われる。日本では正月中初候は「土脉潤起(つちのしょううるおいおこる)」となっていて、「雨が降 って土に湿りけを含む」という意味である。

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