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貴重資料展示室

月と暦(2013年10月18日〜2014年10月)

文明が発達し、人間が定住して農業をするようになると、繰り返す季節の中で効率の良い耕作の時期などを記録して、後の世に伝える方法として暦は使われた。

ひと月は最も身近な天体である「月」(太陰)の満ち欠け(朔望)の周期を使って、1日と1年の間の単位として自然に使われるようになったと考えられる。長い間に季節とのずれを大きくしないように工夫された暦が、太陰太陽暦として世界各地で使われた。

宣明暦

「宣明暦(せんみょうれき)」刊本3冊 寛永二十一年(1644) 吉田光由 著 (番号:258、マイクロNo.100)

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「宣明暦(せんみょうれき)」寛永二十一年(1644) 吉田光由著 刊本3冊(番号:258、マイクロNo.100)

宣明暦 宣明暦 宣明暦

「宣明暦」は中国から遣唐使により伝わり、日本では800 年以上にわたって使われた、最も使用期間の長い太陰太陽暦である。

中国の太陰太陽暦は月(太陰)の満ち欠けからひと月の長さを決め、天球上の太陽の位置である二十四節気のうち中気を使って、一月から十二月までを配当することで、季節に合わせた。

しかし、こうして決めた十二ヵ月の長さは354日で、天球上の太陽の動きで決まる1年と比べて約11日短いので、これも二十四節気を使って約3年に1度閏月を入れ合わせていた。

この本は、当時は珍しい3色刷で、二十四節気、七十二候の説明から始まり、中国の暦では一年の基準となる冬至の求め方など、宣明暦法について書かれている。

「崇禎暦書 暦引(すうていれきしょ れきいん) 図編」安政二年(1855) 高橋至時(よしとき) 句読、渋川景佑(かげすけ)編 刊本3冊(番号:241、マイクロNo.97)

崇禎暦書 暦引 図編 崇禎暦書 暦引 図編

崇禎暦書は、中国明朝の末(1636)に西洋天文学の知識を取り入れた改暦のため、イエズス会宣教師の知識を得て編纂された。清になって膨大な「崇禎暦書」から、その摘要が「崇禎暦書暦引」としてまとめられた。

ここで挙げた本は、日本で渋川景佑が「崇禎暦書暦引」の内容を図で解説したものである。右上図の多禄某とはトレミー(プトレマイオス)、左上図の歌白泥はコペルニクスのことであるが、コペルニクスの天体図は地動説であるはずだが、天動説に二十八宿や歳差の二天を加えた間違った図である。

崇禎暦書 暦引 図編 崇禎暦書 暦引 図編

上の左右の図は「崇禎暦書」で閏月の説明がされている節である。

下から十月、十一月、十二月となっていて見難いが、太陽の黄経30°毎(角度でなく宣明暦の下右図のように寅宮、丑宮、子宮と記述)に中気が配してあり、中気冬至が含まれる月を十一月、大寒を含む月を十二月、雨水を含む月を正月とする。

下左図のように冬至と大寒の間に中気を含まない月がきた場合に、これを閏月として、例のように十一月の後であれば、閏十一月とした。

「太陽窮理了解説(たいようきゅうりりょうかいせつ)」寛政四年(1792) 本木良永訳 写本1冊(大正新写本)(番号:301、マイクロNo.69)

「星術本源 太陽窮理 新制了解 天地二球用法記 和解例言」寛政四年(1792) 本木良永訳 写本1冊(大正新写本)(番号:300、マイクロNo.69)

天地二球用法記

本木良永(1735-1794)は長崎の通詞(幕府に任命された世襲の通訳)で、オランダ語に通じていた。

これまでのように、中国でイエズス会宣教師によって翻訳された本(カトリック系であるため、教義に反する地動説は除かれていた)ではなく、直接オランダの書物から知識を得ることが出来る立場にあったため、「天地二球用法」で我が国に初めてコペルニクスの地動説を紹介することになった。

太陽窮理了解説

「太陽窮理了解説」はイギリスで出版されたジョージ・アダムスの天文書のオランダ語版を和訳したものである。

この本で地動説やケプラーの惑星の楕円軌道はすでに自明のものとして採り入れられている。

日本では、中国経由の崇禎暦書を参考に寛政暦が、オランダ翻訳書からの知識を生かし天保暦と西洋の天文学から新しい暦が作られた。

「天文捷径 平天儀図解(てんもんしょうけい へいてんぎずかい)」享和二年(1802) 岩橋善兵衛著 刊本1冊(番号:458、マイクロ73)

平天儀図解 平天儀図解 平天儀図解

日本でも古くから月を祭ったり、季節の中で宴を催したり、鑑賞することは行われてきた。しかし、いつも同じ面を見せている月の模様をうさぎの餅つきに見立てるような伝承はあっても、月自体を天体として観察した記録は、江戸時代に海外から望遠鏡が入ってからのようである。

岩橋善兵衛(大阪貝塚の元眼鏡職人 1786-1811)は、西洋の望遠鏡を元に自身で作った望遠鏡を「窺天鏡」と名付け、これで観測した天体の図を自著である天文学の入門書「平天儀図解」に載せている。

「平天儀図解」には、地球を中心に月が、次に内惑星の水星、金星が周りを回っている太陽が来て、その外に惑星の火星、木星、土星と続く、天動説の宋天図がある。

当時暦を作るにあたっては、天動説でも地動説でも大きな問題は無く、いかに実際の月と太陽の動きに近いモデル(暦法)を作ることができるかが重要であった。

「安政七年 朏暦(みかづきごよみ)」安政六年(1859) 高橋淵黙(えんもく)1枚刷(番号:9036、マイクロ4001)

安政七年 朏暦

日本では明治六年太陽暦に改暦されるまで、太陰太陽暦が使われていた。それで新暦に対して旧暦という言い方をすることもある。

古い中国の暦法では、朔日に月は見られないため、月が見えるようになってから遡って朔日( 「つきたち」の変化)の月の位置を推定したとされている。

この朏暦は、仙台藩の高橋淵黙(元貞、1821-1870)が作った安政七年(万延元年1860) の暦で、当時一般的な暦であった月頭暦とは違い、その月(天体の moon でなく暦の month )の大小だけでなく、三日の干支、暮六ツ時の月の高度方位と、三日月の光っている部分が立っているか寝ているかが描かれている。

「右記ス所ハ毎月初三月ノ暮六ツ時見ル所ノ月

光多少ノ分数及ヒ月光形象ノ向フ斜直ト月

ノ見ユル方位ト月ノ地平ヨリ昇ル高度ナリ」

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