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貴重資料展示室

渋川春海と「天地明察」(2010年4月17日〜10月22日)

平成二十一年(2009)末、渋川春海(はるみ)(1639〜1715)を主人公とした小説「天地明察」(冲方丁著)が刊行され、暦を題材にした小説としては異例の売れ行きを示した。春海は将軍に仕える囲碁の家元四家の一つ、安井家に生まれた棋士だが、日本の暦が約800年ぶりに改まる契機となった貞享暦(じょうきょうれき)を作った人物でもある。貞享暦成立には、それまで中国や日本で使用されていた暦の存在だけでなく、日本における数学や天文学の発展、春海の周囲の人々の学問的・政治的協力などが深く関わっていた。

なお、本文中で斜体の個所は「天地明察」から引用した登場人物たちによる言葉である。

貞享暦貞享暦

「貞享暦」天和三年(1683)保井春海著 写本7冊(番号:186,187、マイクロNo.52,32)

「宣明暦(せんみょうれき)」[吉田光由著] 寛永21年(1644) 刊本3冊(番号:258、マイクロNo.100)
「一つの暦法の寿命は、どれほど優れていようと、もって百年。八百年も続けて用いること自体がたわけておるわ」

宣明暦

天安三年(859)、渤海(ぼっかい)国(698-926、現在の中国東北部、朝鮮半島北部、ロシア沿海州)の使節を通じて宣明暦が日本に輸入された。当時の優秀な中国暦であった宣明暦は貞観四年(862)から日本でも施行されたが、唐で使用されたのが長慶二年(822)から景福元年(892)までの71年間だったのに対し、日本では貞享元年(1684)まで823年間もの長期にわたった。そのため約800年後には、例えば暦の上での太陽の位置が実際と異なるような事態が生じていた。「天地明察」では、建部昌明・伊藤重孝と全国各地の観測を共にした春海が、彼らから宣明暦のずれについて聞かされ、改暦に関心を抱いていく場面が描かれている。

写真右ページは季節による日の出・日の入りの位置変化を表している。左ページは暦作成に用いられた漏刻(水時計)の図である。

「発微算法演段諺解(はつびさんぽうえんだんげんかい)」建部賢弘(たけべかたひろ)著 貞享二年(1685)刊本4冊(番号:1713、マイクロNo.1003)
「算術が変わる。算学の誕生だ。この大和の国の算学。和算だ」

発微算法演段諺解 発微算法演段諺解

「天地明察」で算術の天才として登場するのが関孝和である。中国歴代の暦法で当時最高とされていた授時暦について、孝和は春海が理解できなかった個所も自分のものにしていたと言われている。「発微算法」は延宝二年(1674)に出版された孝和の著作で、算術家の沢口一之が「古今算法記」に掲載した遺題(解答を伏せた問題)15問に解答を付したものであるが、孝和は解答のために独力で新たな術式を編み出し、日本独自の和算が発展する重要なきっかけを作った。

「発微算法演段諺解」は「発微算法」の解説書。著者の建部賢弘は孝和の弟子であり、また建部昌明の甥でもある。「〜演段諺解」には「発微算法」の内容も含まれており、写真右は孝和による解答、左が賢弘による解説である。

<第1問>円(大円)の中に3つの円(中円1つ、小円2つ)による空隙がある。大円より空隙の部分を除いた面積(S)は120歩。中円の直径より小円の直径は5寸ほど短い。大・中・小の円の直径(R, p, r)はどれだけか(1歩=1寸の2乗とする)。

「日本長暦(ちょうれき)」保井春海著 写本3冊(番号:434、マイクロNo.37)
「そなた、いったい幾つ、歴史に残るものをこしらえれば気が済む」
「陰陽の鬼神呪術がなんぼのもんや。天文暦法と神代の奥義こそこの国の秘儀の根幹や」

日本長暦

神武天皇の時代から貞享二年(1685)まで、約2300年間の暦日を計算・復元したもので、日本では過去に例を見ない労作である。これによって往古の重要な祭祀の日を知ることができるようになり、朝廷や神社からも広く歓迎された。

長暦の見方は、例えば写真の一覧表では貞応元年(1222)一月が大の月で、その月の朔日(1日目)の干支(かんし)が庚戌であることを示している。貞応元年当時の日本の暦は宣明暦に基づいていたため、計算も宣明暦に拠っているはずだが、この写本では儀鳳暦(ぎほうれき)と書かれており、後世による「宣明暦か」との書込が見られる。

「天経或問(てんけいわくもん)」延宝三年(1675) 游子六(ゆうしろく)著 西川正休訓点 刊本3冊(番号:348,351、マイクロNo.73)
「何でも渡してやる。何か必要なものはあるか」
「一つだけ、入手できぬものがあります。元は洋書です。題を、「天経或問」と言います」

天経或問 天経或問 天経或問

「天経或問」は、中国の天文書ながら西洋天文学に基づいて書かれている。春海の存命中、日本は禁書令によってキリスト教に関する書物の輸入を制限していたが、天文学関係の本も対象に含まれていたため「天経或問」の入手はきわめて危険な行為であった。「天地明察」には、水戸光圀に実力を認められた春海が光圀に対して「天経或問」の重要性を訴え、取り寄せに成功する場面がある。・t海はそれまで授時暦をそのまま日本に導入しようと試みて失敗していたが、研究を重ねて授時暦を修正する形で日本独自の暦を作り上げ、大和暦と命名した。

禁書令は享保五年(1720)に八代将軍徳川吉宗によって緩和されたが、緩和の必要性を吉宗に上申した和算家の一人が建部賢弘である。

「貞享暦」天和三年(1683) 保井春海著 写本7冊(番号:186,187、マイクロNo.52,32)
「春海様の大和暦法は、必ず、帝のお気に召します。ともに改暦を果たしましょう」
「正しく天の定石をつかめば、天理暦法いずれも誤謬無く人の手の内となり、ひいては、天地明察となりましょう」

貞享暦 貞享暦

天和三年、春海は大和暦の採用を正式に上奏した。上奏文の「請革暦表(せいかくれきひょう)」には「正に知る、頒行する所の宣明暦、天に後る二日なるを。今天文に精しきは則ち陰陽頭安倍泰福、千古に踰(こ)ゆ。松田順承という者あり。暦数に審(つまびらか)なり」と書かれており、「天地明察」にも重要な協力者として現れる土御門泰福や松田の名前が出てくる。また、春海は歴代の和暦である儀鳳暦・大衍暦(たいえんれき)・宣明暦と比較して大和暦の精度が高いことも実証している。

翌年の貞享元年(1684)、霊元天皇は大和暦採用の詔を発布した(実際の改暦は貞享二年)。大和暦は年号を冠して貞享暦と命名され、その後宝暦四年(1755)まで約70年にわたって使用された。

「七曜暦」延宝四年(1676) 保井春海著 写本1冊(番号:9007、マイクロNo.4001)

七曜暦 七曜暦 七曜暦

「天地明察」には登場しないが、春海の自筆による貴重な資料であるため掲載する。七曜暦は、太陽、月、水星、火星、金星、木星、土星の位置を二十八宿(赤道座標)上で表した、いわば惑星の暦である。

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