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貴重資料展示室

江戸時代の宇宙観(2009年4月1日〜)

1610年、ガリレオ・ガリレイ(1564-1642)は自作の望遠鏡を覗いて木星の衛星を発見し、その他いくつかの知見をもとに、地動説を唱えた。地動説はそもそもニコラウス・コペルニクス(1473-1543)が、『天体の回転について』(1543)という書物の中で論じたものが最初であるが、当初はほとんど受け入れられず、ガリレオの発見とヨハネス・ケプラー(1571-1630)による惑星の楕円運動の解明によって、その正当性を明らかにした。しかし聖書の記述に反するという理由で、ローマ教皇庁は1616年にこれを禁じた。

一方、日本では、望遠鏡の伝来は慶長十八年(1613)と早かったが、それを用いて天体を観測することは江戸中期になるまでなかった。西洋天文学が流入する以前の日本では、中国起源の「蓋天説(がいてんせつ)・渾天説(こんてんせつ)」や、仏教が説く「須弥界説(しゅみかいせつ)」などが宇宙観として知られていた。

日本における天文学とは主として暦を作るためのものであり、暦算天文学と呼ばれることもある。暦の計算を行うにあたっては、軌道の中心が太陽であろうと地球であろうとさしたる違いはなく、日本において地動説が大きな問題とされることはなかった。

天文図解・須弥山図
「天文図解」元禄元年(1688)自序 井口常範著 刊本5巻5冊 より「須弥山図」(番号:384、マイクロNo.76)

「弁説南蛮運気書(べんせつなんばんうんきしょ)」慶安三年(1650)序
沢野忠庵(さわのちゅうあん)編述、向井玄升(むかいげんしょう)考
写本3冊 (番号:463、マイクロNo.96)

弁説南蛮運気書・表紙 弁説南蛮運気書・天動説の図

十六世紀なかば、日本でイエズス会による布教が始まると、それにともない西洋天文学も伝えられたが、当時は西洋においてもいまだプトレマイオスの天動説が信じられていた。

沢野忠庵は日本に帰化したポルトガル人宣教師である。本書が書かれたのは江戸時代になってからだが、その内容はスペイン人イエズス会士ペトロ・ゴメス(1535-1600)著の『天球論』(1595)を下敷きにしているとみられる。

ここで描かれている宇宙は中心に地球が存在し、その周辺に月、水星、金星、太陽、火星、木星、土星が回り、さらに外側に星々を載せた列宿天、歳差を行う第九天、日周運動を行う宗動天が存在するという構成になっている。

「天経或問(てんけいわくもん)」享保十五年(1730) 游子六(ゆうしろく)著 西川正休(にしかわせいきゅう)訓点 刊本3冊 (番号:348、マイクロNo.73)

天経或問・昊天一気渾淪変化図(こうてんいっきこうろんへんかず) 天経或問・ティコの体系の説明。欄外の図は書き込み

本書が中国で刊行された1675年は、西洋ではすでに地動説が主流となりつつあった時期であるが、游子六はイエズス会士の影響を受けた学統にあり、教皇庁が禁じている関係で、地動説を認めることはできなかったと考えられる。その結果として本書では、旧来よりの天動説の図にあわせて、天動説と地動説を折衷したようなティコ・ブラーエ(1546-1601)の宇宙観が紹介されている。

日本では1630年代より鎖国が始まり、キリスト教に関する書物の輸入が制限されていたが、享保五年(1720)に八代将軍徳川吉宗によって禁書令がゆるめられると、西川正休(1693-1756)により訓点のつけられたものが刊行され、一躍ベストセラーとなった。

「暦象考成(れきしょうこうせい)後編」乾隆七年(1742)再訂 写本10巻10冊、巻3欠 (番号:535、マイクロNo.24,25)

暦象考成後編 暦象考成上下編

中国では日本と異なり、キリスト教宣教師の伝える西洋天文学が早くに公的に受け入れられて、西洋式の計算法を用いた暦が作られた。しかし、そのためかえって地動説の導入は遅れた。

本書に先立つ『暦象考成 上下編』(雍正元年、1723)では天体の運動を円運動の組み合わせで説明するティコの体系が採用されていたが、後編になるとそこに、太陽・月の運動についてのみ、ケプラーの楕円軌道説を採り入れた。

日本では寛政の改暦(寛政九年、1797)の際に研究され、寛政暦には太陽・月の楕円軌道が導入された。しかしながら惑星については上下編のままの円運動とした。

「太陽窮理了解説(たいようきゅうりりょうかいせつ)」寛政四年(1792)本木良永(もときりょうえい)訳 写本1冊(大正新写本)(番号:301、マイクロNo.69
「暦象新書」寛政十年(1798)自序 志筑忠雄(しづきただお)写本7冊(番号:539、マイクロNo.62)

太陽窮・摎ケ解説 暦象新書 Inleidinge tot de waare Nature-en Sterrekunde

(左・太陽窮理了解説、中・暦象新書、右・Inleidinge tot de waare Natuur-en Sterrekunde)

本木良永(1735-1794)は長崎の通詞の職にあり、蘭語に通じていた。中国を介さず、直接蘭書から知識を得られる立場にあったため、日本に初めてコペルニクスの地動説を紹介することになった。

「太陽窮理了解説」は英ジョージ・アダムスの天文書(ラテン語版1766、蘭語版1770)を和訳したもので、ここでは地動説はすでに自明のものとして採り入れられている。また惑星の運動についてもケプラーの楕円軌道論に基づいている。

同じく長崎通詞出身で、本木良永の弟子でもあった志筑忠雄(1760-1806)は、英ジョン・ケイル(1671-1721)の著作(ラテン語版1700、蘭語版 "Inleidinge tot de waare Natuur-en Sterrekunde" 1741)を翻訳し、『暦象新書』(寛政十年−享和二年、1798-1802)を書いた。あくまで観念的な理解にとどまった本木に対して、志筑はニュートン力学を解したうえで地動説を論じている。ちなみに地動説という言葉を造ったのは志筑忠雄である。

「新巧暦書(しんこうれきしょ)」天保七年(1836) 渋川景佑(しぶかわかげすけ)、足立信頭(あだちしんとう) 写本15巻15冊 (番号:211、マイクロNo.8,9)

新巧暦書・表紙 Astronomie

享和三年(1803)、高橋至時(たかはしよしとき)は幕府から仏の天文学者ラランデ(1732-1807)の著作の蘭語版『Astronomia of Sterrekunde』(1773-1780)の調査を命じられた。至時は本書に魅入られ熱心に翻訳したが、完成の前に亡くなり、以後を間重富(はざましげとみ)、高・Eエ景保(たかはしかげやす)、渋川景佑らが引き継いだ。

そうしてできあがったのが『新巧暦書』であるが、ラランデの天文書を純粋に翻訳したのではなく、日本の伝統的な暦書のスタイルに編纂しなおした体裁となっている。ここへ至ってついに惑星運動の計算には楕円軌道が採り入れられた。

本書は後に天保の改暦(天保十三年、1842)の礎となったが、これは中国の暦書に倣うのではなく、蘭書を基にした初めての改暦であり、また江戸時代最後の改暦となった。

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