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貴重資料展示室

高橋至時(2004年10月23日〜)

今年は寛政改暦事業をおこなった高橋至時没後200年に当たる。高橋至時は明和元年(1764)に大阪の下級武士の家に生まれた。天明7年(1787)、大阪で天文暦学を教えていた麻田剛立の門下に入り、同門の商人、間重富と共に天文暦学の研究に励んだ。その頃改暦を考えていた幕府により、江戸出府を命じられ、寛政7年(1795)至時は天文方、重富は暦学御用係として、浅草天文台で改暦作業に従事することになった。

「寛政暦法」は中国の漢訳西洋暦法「暦象考成 上、下、後編」を基に考えられた。五星(惑星)は円運動の組合わせによったが、太陽、月は楕円運動を用いた画期的なものだった。しかし、至時はこの暦法に満足できず、享和3年(1803)から亡くなる文化元年(1804)の約半年間で、オランダ語天文書の「ラランデ暦書」の解読に励み、「ラランデ暦書管見」を著述した。この超人的な仕事が命を縮めたといわれる。41歳であった。

至時の指導で、緯度1度の観測を始めたことから、精密な日本地図を完成させた伊能忠敬は、師の隣に眠ることを希望したので上野源空寺の高橋至時の隣に墓がある。

〔恒星世界の図〕「増修消長法」

〔恒星世界の図〕について (〔贈麻田翁〕「増修消長法」)

〔贈麻田翁〕として書かれたこの一文は「増修消長法」に綴じられている。至時が西洋天文学をどのように理解していたかを示す文章である。太陽は恒星の一つであること。恒星はその星自体が光っていることなどを記し、図については「借用中の蘭書中に左のごときもの(前頁の図)相見へ申候」とあり、この西瓜を積み重ねたようなものは恒星一星一星で、各々に中心がある。天体は見ている太陽のようなものを数十万重ねたものだろう。「広大無辺成る事ニ御座候」と記しており、宇宙に対しての驚きを記している。

増修消長法・恒星世界の図増修消長法・本文

「増修消長法」 稿本 1冊 高橋至時著 寛政10年

消長法とは、天文定数が時と共に変化するとして、暦計算に取り入れたものである。消長法は貞享暦でも用いられている。麻田剛立の考えた消長法は周期的に定数が変化するとした。至時はそれに検討を加え、増修消長法として表した。寛政暦法に、この消長法が取り入れられたが、後の天保暦法には使われていない。

増修消長法・表紙 増修消長法・巻初

[参考] 「An ORIGINAL THEORY or NEW HYPOTHESIS of the UNIVERS] T. WRIGHT著 LONDON 1750 1冊 国立天文台所蔵

An ORIGINAL THEORY or NEW HYPOTHESIS of the UNIVERS・扉

An ORIGINAL THEORY or NEW HYPOTHESIS of the UNIVERS・図

この本は英語版であり、[贈麻田翁]では、蘭書から図を写したとあるので、この本などを参考に書かれた蘭書を基にした図ではないかと考えられる。

「ラランデ暦書訳述」 間重富著 自筆本6冊

至時が「ラランデ暦書」蘭訳本を解読して、「ラランデ暦書管見」を表したが、途中で亡くなったため、その後をついで、間重富、至時の息子の高橋景保、渋川景佑等が解読を続けた。

ラランデ暦書訳述・表紙 ラランデ暦書訳述・巻初 ラランデ暦書訳述・本文

「暦象考成 後編」 巻八、九 写本

この二冊の写本は、高橋至時所蔵印である「高橋印」、「至時印」が押されている。又、書き込みは、至時によるものとして伝わっている。「暦象考成 後編」は寛政暦改暦の際に研究された漢訳の西洋暦法で、太陽と月については楕円運動を取り入れている。

暦象考成後編・表紙 暦象考成後編・巻初

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